安土山御天主のブログ

ユメをみたあの山の上の黒い建造物は何?

足利将軍おとし胤

足利将軍おとし胤

今年加賀から戻ってきた翌日、
古市の女の氏ガミの上で、
白い大きななにかに背後からはね飛ばされた。コシ痛スギ!
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白いプリウスに轢かれてた。
ジンシン事故。


それから、
越前一条谷の柄の封書が2通届いた。
内容はほぼ同じ。
ボク心当りありませんけど。
ひょっとして過去に何かしてました?


興福寺に足利将軍の息子さんいてません?
門跡になってたような。

還俗して結婚したらしい。
嫁の母親って越前朝倉氏に嫁いでません?
絶世の美女なのに離縁されてた。
ケイコウイン月下しょうこうって誰?

渓江院殿月下笑光大姉
桂光院月可性高

関白近衛前久の親族じゃない。
兄妹?娘?


渓江院って丹波の赤鬼の嫁になってた。
死んだはずが
大和の古市胤栄に嫁いでた。

ネット記事によると
そもそも、なぜこのような事が
起きるのでしょうか?
らしい。
 

古市胤栄って応仁の乱の頃、
越前朝倉氏と仲良し?
丹後公。
越前、加賀まで馬買いに行ってた。
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あれっ時代が100年ほどずれてる。
別人?


渓江院との間に
古市胤子うまれた。
ウィキペディア見たら
娘に胤子って書いてた。


更に彼女の再婚先でも、
その表記だけが違う、
この最初の戒名と全く同じ発音の戒名が使われるなんて事が、
あるのでしょうか?
らしい。


古市胤子は足利将軍のおとし胤、
大乗院門跡足利義尋の嫁になってた。

一乗院門跡覚慶、
後の足利義昭じゃないの?
その息子さんらしい。



幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、
還俗して義秋(よしあき)と名乗る。
織田信長に擁されて上洛し、
第15代将軍に就任する。
やがて1588年に亡くなった。


16代将軍って誰になるの?
1603年徳川家康が将軍になった。


ネットで、
義尋は僧でありながら子供を儲けた罪で
寺を追い出されたとされている。
このために不埒者の義尋が、
って書かれてますけど。


1605年
足利義尋死んだ。

そして独身に戻った古市胤子は
天皇の嫁になったらしい。

えっ、どういうこと?
清原胤子とも。
古市氏の先祖が清原氏だから?
先祖が舎人親王さらに天武天皇
おお海人のオウジって胡散臭いの?


三度目の彼女の再婚話と
それに付随する戒名の信憑性の方を疑った方が、
順当だと思うのですが。
らしい。

サギとかペテンって事ですか?

赤井弥七郎って誰?
赤井家を相続。
赤井直正の妻・桂光院は、大和国駒崎城主・古市胤栄へ再嫁し、
三男・赤井弥七郎を生む。
弥七郎は、大坂の陣にて豊臣方として参戦した後、
元和2年(1616年)に藤堂家に500石で召し抱えられた、
らしい。
あれっ、藤堂家に赤井直正の嫡男の赤井直義いてた。
1610年に召し抱えられてた。
 

後陽成天皇って本能寺の変の時、
二条城から徒歩で脱出してません?


見間違い?
父親が誠仁親王で陽光院。
二条御新造に住んでた。

天正7年(1579年)には、
この屋敷を皇太子誠仁親王に献上。
同年11月22日に、誠仁親王とその皇子である
五の宮(後の邦慶親王)がこの「二条新御所」に移徙した。



信忠は、二条御新造の主である東宮誠仁親王と、
若宮和仁王(後の後陽成天皇)に、
戦場となるからと言ってすぐに内裏へ脱出するように促した。

明智勢は輿を使うのを禁止したが、
徒歩での脱出を許可した。
二条御新造って
多聞城の部材使ってません?
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